怠け者備忘録

僕らはいつだって井の中の蛙なんだ(*^◯^*)

夭折者と速度 ―ボヘミアン・ラプソディ―

 人生には速度がある。それも強烈なまでの速度で自らの人生へ句点を打つような人間が存在する。ボヘミアン・ラプソディ―を鑑賞した後、沢木耕太郎の夭折者への執着を思い出した。

 

 僕はフレディ・マーキュリーの名前を知識としては知っていた。そして曲はもちろん、スキャンダラスな一面も漠然と知っていた。だがそれは、知っているに過ぎなかったと―だから虚像としてのフレディはあまりにも生き生きとしていた証拠だと―思い知らされたのだ。`somebody to love`で華々しく始まったこの映画はフレディ・マーキュリーの生き方と人生を、リアリティを持った物語として完成されたものだった。

 

 空港でバイトをしながら連日バンドのライブを見に行くある日、`フレッド`はボーカルが抜け解散寸前だったスマイルズへ自らを売るこむことに成功し、加入することになる。そこから一気に駆け上がるその姿は正にアメリカンドリームの写し絵であり、若者という生き物の速度そのものと言っても過言ではないだろう。トライデントと契約、全米ツアーの成功と加速度的なバンドの成功、そしてメアリーとの結婚と、飛ぶ鳥を落とす勢いとは裏腹に`フレディ`は自らが抱えるセクシャルな一面を自覚し始める。

その後の名曲の誕生と対を成すように描かれる、フレディの孤独と過ち、バンドの決裂とそれによる一層の孤独とそれを埋めるようにのめり込む性と薬物は、現実のフレディを知らない人たちさえも、容易に想像できる結末へと、確実に結びついていく。

 

 監督のブライアン・シンガーは、オープニングとエンディングの三曲でフレディ・マーキュリーの性質と人生を高らかに宣言していたことに気が付いた。誰かを愛し、誰かから愛されることを必死に望んだ彼は、誰よりもはやい速度で自らの人生に句点を打ったのだと。そしてこの舞台を終わらせてはならないと叫ぶ彼の姿は、我々が現実で知っている彼よりも美しいものだったろう?と、観ている僕たちに問いかけてきたのだ。

 

私は少年時代から夭折した者に惹かれ続けていた。しかし、私が何人かの夭折者に心動かされていたのは、必ずしも彼らが「若くして死んだ」からではなく、彼らが「完璧な瞬間」を味わったことがあるからだったのではないか。私は幼い頃から「完璧な瞬間」という幻を追いかけていたのであり、その象徴が「夭折」ということだったのではないか。なぜなら、「完璧な瞬間」は、間近の死によってさらに完璧なものになるからだ。私にとって重要だったのは、「若くして死ぬ」ということではなく、「完璧な瞬間」を味わうということだった…。

         沢木耕太郎「テロルの決算」 文藝春秋 p.369   

 

 ライブエイドを「完璧な瞬間」だとすると、物語中の彼は、そこへ導かれるような歩みであり、それ以外は全て単なる読点に過ぎないと言い切れるほど見事な句点であった。それを観ている僕たちも同じように「完璧な瞬間」に立ち会えたと、錯覚できるほどだった。だが劇場を後にした僕たちの人生に「完璧な瞬間」が来ることはあるのだろうか。僕たちは自らの人生に幕を閉じても構わないと、そう思えるほどの句点を打てる瞬間を手に入れることができるのだろうか。おそらく大多数にとっては手に入らないことだ。しかしだからこそ、虚構の物語に共感することで「完璧な瞬間」を手にしたいという欲望を満たし、こんな「完璧な瞬間」が存在した現実を肯定的に思わせる。このような作用が映画のみならず、作品と呼ばれるものの一側面として存在する。これほどまでに多くの人を惹きつける理由は、映画と音楽の親和性の高さはもちろんだが、物語が句点への一直線な描かれ方をしていることも大きい。

 

 フレディ・マーキュリーは生き急いだといわれるほどの速さで、人生を駆け抜けたのだろう…。そうだ俺も昔は全速力で走れていたな。いつから走れなくなってしまったのだろう。走れなくなってしまうことが、大人になるということなら、大人とはなんと悲しい生き物なのだろうか…。家路につく途中、ふとそんなことを思わせるほどの魅力を秘めた作品であった。(3/12)