怠け者備忘録

僕らはいつだって井の中の蛙なんだ(*^◯^*)

マイホームタウン

 一昨年のクリスマスイブに沢木耕太郎が毎年出演しているラジオで興味深いことを言っていた。要約すると、ある映画で父親が息子に「ここがお前のホームタウンだ。」と言っているのを観て、沢木耕太郎も自分の父親に"ここ(東京)がお前のホームタウンだ。"と言ってほしかった、そのような発言だったと思う。東京で生まれ育った沢木耕太郎にはホームタウンがあるかもしれない。しかし幼いころから転勤を繰り返してきた僕のような人間には、たして"ホームタウン"だと胸を張っていうことができる街があるのだろうか。

 

 これまでにいくつかの街に住み、いくつかの街を旅の途中で訪れてきた。そうすると自然と街の風景と記憶が結びついて記憶されている。テレビのニュースでかつて訪れた街が映るとそこでの記憶がよみがえる。あの旅ではあんなことがあった、こんな人に出会った。もちろん思い出せないことも多くある。例えばその風景を見ている時に自分は何を考えていたかということだ。街の雰囲気に、人々の雑踏に吹き抜ける風にどんなインスピレーションを受け、何を考えていたのかを後から思い出すのは意外と難しい。だからちゃんと書き残すべきなのだ、日常と異なる旅先で自分が何と向き合ってどのような自分と向き合っていたのかを。自分と向き合う時間はとても限られていて、とても必要だったことだと後々確かめることができるように。

 

 僕が大学生の頃、長期休みのたびに日本全国を鈍行に乗って、旅をし続けていたのはひたすら自分と向き合うためだったかもしれない。初めて訪れる場所で初めて見るもの通して未完成な自分を噛みしめてきた足跡のような気がする。そう言えば"世界は広い。"こんな当たり前の言葉を頭ではなく、心の底から納得できるようになったのは旅先で、とある山の山頂にいる時だった。

 かつて南朝と呼ばれた人たちが都を称した場所の人もいない寺院で、流れゆく雲を漠然と眺めていた。この場所で見ている雲を、遠くで見ている人はいるのだろうかとか、眼前の寺院を見て数百年も前の過去と現在がこうして繋がっていることが信じられない気持ちになりながら目的もなく歩いていた。ふと眼前がひらけ、奥まった場所に隠されていたように異なる寺院が現れた。その瞬間僕はなぜかこの世界の大きさに納得してしまった。僕が知らなかっただけか、あるいは僕の目に見えていないが確かに昔からそこにあったものがあるという、当たり前の事実を現実が教えてくれた瞬間だった。結局僕は今見えているものしか見えていないことに気づかされたのだ。この世界はどれほど広く、深いのだろう。この旅から僕は取りつかれたように日本全国を旅することになった。

 

 "マイホームタウン"。これほど甘美な響きを持つ場所をもしかしたら僕は旅することで見つけようとしていたのかもしれない。ここではないどこかへ、あるかどうかもわからない、桃源郷を見つけようとした神話の人々のように。

 桃源郷もマイホームタウンも見つからなかったが、それでも僕は旅を思い出す。それは未だにここではないどこかを探し続けている証拠なのかもしれない。

f:id:sansyang:20190825234850j:plain

2016/3/26 吉野山にて