怠け者備忘録

僕らはいつだって井の中の蛙なんだ(*^◯^*)

物語の推進力

※かなりネタバレを含みます。

 

もしかしたら邦画の想像力では、世界的な名作はもう作れないのかもしれない。僕はそんな絶望的な思いをしながら映画『キングダム』を観ていた。

『キングダム』は原作が漫画で、古代中国の戦国時代の物語である。下僕の少年が偶然の出会いから天下の大将軍を目指す、そんな王道的な物語だ。私の家では両親が漫画を読む人たちであったから、小学生の頃から原作を読んでいたため、正直なところあまり期待はしていなかった。原作を実写化が超えることは稀有な例なのは承知だったし、それを期待するのも酷なことだと思っていた。しかしふとした瞬間に映画館まで足を向けてみようという気になった。

 

 僕がこの映画を観終わって気になったことは、原作ファンを意識しすぎているのではないかということだ。例えば冒頭の信が王騎を"天下の大将軍"として目にするシーンは映画オリジナルであるが、これにより観客は"主人公が目標とするであろう人物"を早々と知ってしまう。原作を読んでいるのならこの演出はむしろ盛り上がるようなシーンだと思うが、考えてみれば原作での"天下の大将軍"像は信と同じ目線で徐々に開示されていったはずだ。言葉としてしか知らなかった"天下の大将軍"という存在を、僕たちは王騎の登場のたびに、その不気味さを通して意識し、理解していく。王都奪還編では信と王騎は会うことすらないが、王騎という存在をメタ視点で認識できる読者には、王騎が将来信の師となるであろうことが暗示される。だからこそ、この後に蛇甘平原で初めて2人が直接会う瞬間へと集約されていくのではなかったのか。もっと言うなら更にその後の展開へと繋がっていくのではないのだろうか。

 他にも魏興の役割にも釈然としないものがあった。本来魏興という人間は、単に力頼みでは無い、知力を備えた武人として描かれており、そのため嬴政たちは苦戦することになる。しかし映画では単なる武力頼みの人間として描かれてしまっており、その上、王騎ではなく、信の引き立て役として、つまり天下の大将軍では無く無名の下僕の少年に斬られるために存在するという役に成り下がってしまっている。

 

つまり僕が気になったことは、誰の何の物語だったのかということだ。本来なら王都奪還編とは信と嬴政の互いの夢への初陣としての物語であったはずが、信と王騎の物語になっていったのではないかという疑問だ。そしてその原因は王騎という大きすぎる存在に製作側も引っ張られすぎたことにあるのではないかと思う。偉大な人物をより偉大に、より魅力的にしたいという気持ちは十分に理解できるが、今回は冷淡とも取れる態度で一線を引いて欲しかった。王騎はまだしばらくキングダムという舞台に立つことが決まっているのだから。そして二人の人間に焦点を絞ったことが、その他の登場人物の魅力をかすめるようになってしまった。もちろん王騎、楊端和、嬴政の3人に関してはこれ以上がないほどの魅力のある人物として描かれていたの言うまでもない。そしてそれはキャラとして完璧であり、シナリオを超えたところにいるようにさえ感じた。王騎も楊端和も嬴政も見せ所はここではないことを知っているから。

 

  キャラクターを動かした結果物語を動かすのでは無く、物語の中でどうキャラクターが動くかによって作品が描かれてないことには、キャラクターの魅力は引き出せても、物語の魅力は減ってしまう。なぜならあくまでキャラクターは物語の上でしか存在できないのだから。そしてそのことが邦画が洋画を超えれない部分であるように思えるのだ。