怠け者備忘録

僕らはいつだって井の中の蛙なんだ(*^◯^*)

大人に"走れ"とけしかけている『空の青さを知る人よ』

とてもとても今更ながら"空の青さを知る人よ"感想

 

 新海誠にせよ、岡田麿里にせよ、青春を過ぎてしまったはずの大人たちに"走れ"とけしかけているような気がした。20代前半の今ではなく、30代になってから鑑賞したら多分泣いてしまうと思うほどに心に響いた作品だった。

 

 それにしても「若者」が「ロック」で「東京を目指す」物語をこの令和の、2019年になって感動するとは思わなかった。昭和・平成でやり尽くしたものだと思っていた。たしかに音楽と映画の親和性の高さはアニメ『君の名は。』、『ボヘミアン・ラプソディ』などで明らかにされたところで、今作もその親和性の高さは間違いない。導入部のあおいがイヤホンを着用するとともにベースの低音が響くシーンなど象徴的だった。しかしそのためにロックを用いた訳ではないだろう。既に使い尽くされた要素であるが、「若者」が「ロック」で「東京を目指す」ことで、生じる葛藤や託すべき夢の説明を大幅にカットして観客に届けることに成功したのだ。一言であらわすなら、「若者がロックで東京を目指す」と聞けば、おおよその物語の想像はついてしまう。

 

 美しい自然を持つ秩父。都心からわずか2時間ほどでたどり着けるこの街を"鳥籠"と称するのはやや違和感を覚えるが、秩父に住む友人から一度聞いたことがある。秩父は周りが山に囲まれた盆地で、その上交通の便もあまりいいとは言えないから、他の地域から孤立している感覚があるのだと。もちろん囲まれていることだけに対して"鳥籠"と言ったわけではないことは明らかだ。従前から使われていた意味、"縛り付ける場所"そのメタファーだ。"鳥籠"である秩父から出て行こうとする主人公のあおいは、姉のあかねに自由に生きて欲しいと願う。そのためには自分がここから出て行く必要があるのだと思っている。だが姉の元恋人の慎之介が演歌歌手のバックミュージシャンとして里帰りすることから大きく物語は動き出す。

 

  上映中「これも大人に"走れ"とけしかける作品なのかもしれないな…」と感じていた。ここでの"走る"というのは肉体的な動作の意味に留まらず、精神的にも全力を尽くすことのメタファーとしてだ。

 以前聞いた話だが、"なぜ子どもはすぐにバレるような嘘をつくのか"という疑問に対して、"子どもは今しか生きてないから、明日とか明後日のことまで考えて生きてないから"と答えた人がいた。"今この瞬間"しか生きていないのだから、赤ん坊たちは電車で大きな鳴き声を上げることができ、ショッピングセンターで走り回ることもできるのだと漠然と納得してしまった。たびたびこの話を思い出していたのだが、もう1つ別の作品を観ても同じことを思ってしまったのだ。

 

 "天気の子"を数か月前に鑑賞していたが、主人公の穂高が線路上を走るシーンでも同じような感想を抱いていた。僕には線路にいる作業員や駅員に声を掛けられながらも、穂高がひたすら走り続けられた理由と、大人たちが声をかけるにとどまって、直接止めに入らなかった理由が同じだと感じていた。つまり僕たち大人はもう走れなくなってしまったのだ。義務とか役割だとか受動的なものがなければ、ただ走ることすらできなくなったのだ。そして"空の青さを知る人よ"で慎之介は最終的に自らの足で走ることを選択する。それは賢い大人であろうとした自分への決別であると同時に、過去の自分自身と向き合えたことを示唆する。だがここで別の問題が生じる。いまだに子供である、あおいは?これは誰もが経験する青春の喪失という物語であるが、エンドロールによってこの物語をどうしたかったのか明らかになる。エンドロールで流れるあおいの表情をかつての自分たちと重ねながらこの作品は賑やかに終わる。

2019/10/28 秩父雲海とミューズパーク

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