怠け者備忘録

僕らはいつだって井の中の蛙なんだ(*^◯^*)

行き止まりのこの世界で

 目の前にある世界はもうすでに行き先のない、袋小路に入っているのかもしれない。山間部の車一台がやっと通れるような国道を車で走りながら、そんな漠然とした不安が胸に押し寄せてきた。

 僕はふと思い立って登山に出かけたが、気まぐれに決めたため無計画に車を走らせていた。それほど大きくないが水がとても澄んでいる川を見ると、親子が川遊びに興じている。少し道を走った先には釣り人が歩いている。もう5月も終わろうとしているが、初夏の訪れを告げるような風景だった。1つ集落を抜け、しばらく道を進みまた1つ集落を抜ける。古びた神社、人工の赤色が、豊かな自然の天然色と不釣り合い目立つ郵便局など、典型的な田舎にあるべきものがところ狭しと隣接するように、川と山の間のわずかな空間に住宅が所狭しと建てられていた。東京に住んでいた頃の僕ならば、日本の原風景ともいえるこの場所に憧れて、また羨ましく思っていたに違いない。だか東京を離れてしばらく経ち、地方暮らしに慣れてきた最近ではそんな見方ができなくなった。

 


 「この町は何もないから、退屈でしょ?」僕が職場で東京出身だと告げると多くの地元の人たちはそう言う。今まで僕はその意味に実感を持てていなかった。確かに住宅地や集落を少し離れると途端に一面耕作地や山で、遊ぶ場所という意味では"何もない"のは間違っていない。しかし元々旅行が好きで、ふらっとどこかに行ってしまう僕にとっては、最低限度の生活ができれば"何もない"わけではなかった。地元の神社仏閣があれば"何かある"くらいの認識をもっていた。だからこそ、地元の人たちが言う"何もない"に実感がわかないでいた。 ただその"何もない"停滞感だけは僕も深く感じていたから、余計によくわからないままであった。


 しかし先日、補修もまともにされないような国道を走り、人が生活している雰囲気が辛うじてするような集落をいくつか抜けたとき、わかったような気がした。ある集落で恐らく最近(と言っても10年以上経っているだろうが)建てられたらしい、いかにもハコモノな建物を見たときにふと"何もない"というのは、今"遊ぶ場所がない"に留まらず、そのような場所がこの先できる可能性すらない場所ということも含んでいるのではないだろうか。これ以上、何かが大きく変わる可能性がないという意味が含まれている気がしたのだ。

 


 東京に長らく住んでいると、街が変わっていくは当たり前のように感じていた。ここ数年、きたるべき東京五輪に合わせて都市部以外でも公共工事から駅前の再開発まで、至るところで重機が動き、街が動いてる風景があった。東京はスクラップ&ビルドをすることで時代に見合った成長をとげていく。しかし社会人になり、地方で生活するようになってからはそんな光景を見たことがない。もちろん再開発だけでなく、ゼロから新たに何かを作っていたところを見た記憶もない。地方にある"何もない"停滞感とは、時代に見合う成長から取り残され、過去の延長の今として存在していることから起こる感覚なのではないか。過去の威光だけでは、未来への指向性を持ちえないことを僕らは既にいやというほど知っている。

  僕がハコモノを見て感じたのは、こうしたその場限りの対処が、問題を先送りにするための"気を使っている感"が根本的な解決への道を閉ざしたのだということだ。しかし根本的な問題は、行政の側がそれ以外の対策ができないということだ。確かに大都市部へのアクセスのよさや、自治体の予算的な体力が大きな問題で周知の事実なので詳しい言及はさけよう。だが地域振興をやろうにも都市部からのアクセス悪く、人が集まらなかったり、再開発ができないのでは意味がない。わかりやすくその時の思考を文字起こしすると、

 


ハコモノ造って金のムダだな…→でもそれ以上はやりようがないな。再開発する金もなければノウハウもない、住民から反対されるだろうし→ちゃんとこの集落への気を使ってますよアピールをわかりやすくするために、大きくて新しいハコモノを造ったというより、アピール方法がそれしかないのか…

 

 現実を何も知らずに憶測と推測の思考のためであるから現実はより複雑であると思う。しかし選挙の為か、本当に必要だったからなのかは判断がつかないが、こうした継続的で指向性を持った政策ができずに、場当たり的な手段しかできないがゆえに、またそれ以外の手段がないがゆえに、このような集落が出来上がっていったと僕は思っている。この集落はもう完全に袋小路にはいり込んだ、そして可能性の行き止まりへ来てしまったということだ。同時にこの集落に留まらず、日本全国で既に発生し、そして現在進行形で発生しつつあるということも事実なのだろう。


 国道をさらに進む。道端の祠に黄色い花が咲いていた。まだ住んでいる地元の人が供えたのだろう。だが何年後かには供えられることもなく、誰からも見向きもされなくなる。この眼前にある世界は現在進行形で閉じられつつあり、この世界をどうすることもできない。人の営みが消え、ただ自然に還っていく事実が僕をいっそう落ち込ませた。